映画『モンゴル』から見るモンゴル帝国とチンギス・カン

1200年代の中東地域最大の帝国だった!

チンギス・カンの生涯4

戦乙女に導かれ、戦場を駆け抜けるエインフェリアのように戦い続けたチンギス・カンも、その命に限界が訪れた。1227年に帰らぬ人となったチンギス・カンの死後、モンゴル帝国が後の後継者争いで長年戦い続けていくことになるが、そのことについては先ほど述べた項を参照していただきたい。

次に、彼の死後、その遺体、そしてモンゴル帝国の行き先を見てみる。

「黄金の氏族」と呼ばれた一族とは

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陵墓と祭祀

チンギス・カンの死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰った。『元史』などの記述から、チンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られているが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたという。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされる。チンギスは死の間際、自分の死が世間に知られれば敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないように家臣達へ遺言したとされる。

それだけチンギス・カンは自分が他国からどのような存在なのかをよく理解していたということだろう。象徴たる自分がいなくなった瞬間弾圧されていた諸部族たちが乗じて反乱を起こすことを見越していたのだ。

自分の遺体がどこにあるか分からないようにする、そして遺体を運んでいるところを見たものは殺害されると、徹底した隠匿が当時らしい事態だろう。

チンギス・カンの祭祀は、埋葬地ではなく、生前のチンギスの宮廷だった四大オルドでそのまま行われた。四大オルドの霊廟は陵墓からほど遠くない場所に帳幕としてしつらえられ、チンギス生前の四大オルドの領民がそのまま霊廟に奉仕する領民となった。元から北元の時代には晋王の称号を持つ王族が四大オルドの管理権を持ち、祭祀を主催した。15世紀のモンゴルの騒乱で晋王は南方に逃れ、四大オルドも黄河の屈曲部に移された。こうして南に移った四大オルドの民はオルドス部族と呼ばれるようになり、現在はこの地方もオルドス地方と呼ばれる。オルドスの人々によって保たれたチンギス・カン廟はいつしか8帳のゲルからなるようになり、八白室と呼ばれた。

一方、チンギス・カンの遺骸が埋葬された本来の陵墓は八白室の南遷とともに完全に忘れ去られてしまい、その位置は長らく世界史上の謎とされてきた。現在中華人民共和国の内モンゴル自治区に「成吉思汗陵」と称する施設があるが、これは毛沢東が延安に移動させた後、1950年代に中国共産党が八白室を固定施設に変更して建設されたもので、この場所やその近辺にチンギスが葬られているわけではない。

冷戦が終結してモンゴルへの行き来が容易になった1990年代以降、各国の調査隊はチンギス・カンの墓探しを行い、様々な比定地を提示してきた。しかしモンゴルでは、民族の英雄であるチンギス・カンの神聖視される墓が、外国人に発掘されることに不満を持つ人が多いという。

2004年、日本の調査隊は、モンゴルの首都であるウランバートルから東へ250キロのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・カンのオルド跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・カンの霊廟として用いられていたことを明らかにした。調査隊はチンギス・カンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告したが、モンゴル人の感情に配慮し、墓の捜索や発掘は行うつもりはないという。

もしもこれで発掘したなら、調査隊は拉致・監禁、そして国家間の緊張といった最悪の事態を招きかねない。だが世界の英雄たるチンギス・カンのミイラとなれば歴史的価値は計り知れないだろう。見てみたい気もするが、これが叶うことはまず無いと思う。

また2009年、中国大連在住のチンギス・カンの末裔とされる80歳の女性が「チンギス・カン陵墓が四川省カンゼ・チベット族自治州にあることは、末裔一族に伝わる秘密であった」と発表し、現地調査でも証言と一致する洞窟が確認されたため、中国政府も調査を開始した

1200年代の中東地域最大の帝国!

チンギス統原理

モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・カンの男系子孫しかカンやモンゴル皇帝に即位することができないとするチンギス統原理が広く受け入れられるようになった。

13世紀の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちはジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。

チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、18世紀頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しか現れなかった。モンゴルやカザフでは、20世紀の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。

こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。

2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析の結果、彼らによれば、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たという。

この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンであると推測しており、この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという仮説を発表した。

この研究を主導したひとりクリス・テイラー=スミスは、チンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげている。

フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったという。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べている。

しかしながら、この論説に対しては批判もあり、特に集団遺伝学者でスタンフォード大学のルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァは、Y染色体の広範な分布について、共通の先祖を想定することには同意出来るものの、これを歴史上のある特定の人物の子孫であると特定するには正確さを欠いている、として異議を唱えている。さらに、分布の状況と一夫多妻制が原因しているとするテイラー=スミスの見方に対しても、「あまりに短絡的かつ扇情的」であるとして非難している。

オックスフォード・アンセスターズの遺伝学者ブライアン・サイクスも研究が発表された2003年に出版した著書で上記の研究を紹介しているが、「状況証拠は有力だが、残念ながら証明はできない」としながらも、検出されたY染色体についてチンギス・カンのものであるとほぼ断定している。

同氏は人類の繁殖と拡大にはY染色体による男性の暴力的な性格や支配欲が密接に関係しているとする見解に立っており、チンギス・カンに対する人物評についても「チンギスハーン本人が、みずからのY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも、勝利することになった」という見方をしている。

また、女性の意に添わぬ交渉では男児が生まれ易い、とする見解も述べている。これら同氏の議論に対しては、「英国人のアジア系遊牧民への人種的民族的偏見(あるいは羨望)」に基づいているという批判もされており、同氏の見解のとおりだと、英国にも一定頻度で同様のY染色体キャリアがいることについて説明が出来ない、との反論がある。

このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。

モンゴル人民共和国はスフバートル、ダンザン、ボドー、チョイバルサン、ドクソム等のモンゴル人民族主義者が作ったモンゴル人民党がソビエト連邦の赤軍の支援を受けて独立宣言させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属する衛星国だった。

当初はリンチノら汎モンゴル主義者によって革命のためにチンギスカンを政治的利用させていた。

1960年代にはトゥムルオチル政治局員によってチンギス・カンの祝賀が行われ、切手も発行され、巨大な記念碑も建設された。トゥムルオチル政治局員とライバルだった当時の首相ツェデンバルはこれを機にトゥムルオチルを「中国寄り」であるということで追放させた。以後チンギス・カンは批判されていった。

モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生のモンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、崇拝を集めることになった。

中華人民共和国では、1995年に内モンゴル自治区で人権活動家のハダとモンゴル族の若者が集まりチンギス・カンの肖像画を掲げてモンゴルの歌を放吟したが「国家分裂扇動」「スパイ活動」をしたとして逮捕拘禁されている。

また、チンギス・カン率いるモンゴル帝国の戦闘ぶりは、「来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」と評されている。

かつて侵略した側とされた側、その溝は歴史を跨いでも深く、また降りている根も強固で抜けにくい。

どちらが正しいということではないが、侵略された国から見ればチンギス・カンは『悪人』としか見えていないのだろう。それが悪いこととは言わないが、国家を挙げての批判になればその規模計り知れないものになるだろう。

チンギス・カンが残した因縁が、この後も途切れることはないというしかない。


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