映画『モンゴル』から見るモンゴル帝国とチンギス・カン

1200年代の中東地域最大の帝国だった!

モンゴル帝国・建国1

映画の中ではモンゴルの壮大な大地を体感できるようなアクションもあり、日本でも浅野さんが主演している作品ということで話題をさらっていた本作品だが、では劇中でテムジンがモンゴル統一を果たして完成した『モンゴル帝国』とはどんな国だったのか、まずはそこから紐解いていこう。

「黄金の氏族」と呼ばれた一族とは

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歴史

モンゴル高原は9世紀のウイグル国家の崩壊以降、統一政権が存在しない状況にあり、契丹の住む現在のモンゴル自治区でもある当時の南モンゴリアは遼朝や金朝の支配下にあったが、北モンゴリアでは遊牧民が様々な部族連合を形成し、お互いに抗争していた。これは映画冒頭のテムジンの幼いころの状況と照らし合わせれば理解しやすいだろう。

このような情勢の下12世紀末、北東モンゴリアに遊牧するモンゴル部のキヤト氏族集団の出で、ブルカン山辺りで生まれたのがテムジン、後のチンギス・カンである。テムジンは同属の絆ではなく個人的な主従関係で結ばれた遊牧戦士集団を率い、高原中央部の有力集団ケレイト王国の当主オン・ハンと同盟を結び、1196年金朝に背いたタタル部をオン・ハンと共同で討伐し、同族の諸氏族を討って頭角を現した。

1203年、オン・ハンと仲たがいしたテムジンは、これを倒してケレイト王国を併合し、翌年には高原西部の強国ナイマンを滅ぼした。テムジンの元にコンギラト、オングトなど周縁部の有力部族集団も服従するようになり、モンゴリアを統一したテムジンは、1206年春にココ・ナウルに近いオノン川上流の河源地において開かれた大集会において、全モンゴリアの王者を意味する【カン】に推薦され、この時より『チンギス・カン』と称されることになる。

チンギス・間は、高原の全ての遊牧民を腹心の僚友や同盟部族の王達を長とする95の『千人隊』と呼ばれる集団に編成し、それぞれの千人隊から1000人の兵士が供出可能な軍事動員制度を整えた。さらに、高原の東部台考案両方面には三人の弟、ジョチ・カサル・カチウン・テムゲ・オッチギンを、西武アルタイ山脈方面には三人の息子、ジョチ・チャガタイ・オコディにそれぞれの遊牧領民集団を分与し、東西に向かって一族が広がっていく基盤を固めた。

代ハーンとして即位したチンギス・カンは南の西夏に親征し、これを服従させる。さらに、1211年には西遼に服従していた天山ウイグル王国を帰順し、モンゴル高原西部のオイラト、トメト、カルルク、西遼などの周辺諸国に次々に遠征軍を送って規準と制服を達成し、南シベリア、中央アジアまで勢力を上げた。

同年からは金朝に遠征して、中国の東北地区の満州と華北を折檻し、金朝皇帝宣宗は先代衛紹王の公主をチンギスに嫁がせて和睦を結んだが、1214年には首都の中都を放棄して河南の開封へ遷都し、金朝は河南のみを支配する小国に転落してしまう。

1218年からは中央アジアのオアシス農業地帯に対する大規模な遠征軍を欲し、シルダリア河流域からイランまでを支配するホラズム・シャー朝に侵攻した。モンゴル軍はサマルカンド・ブハラ・ウルゲンチ・ニーシャープール・ヘラートなど中央アジアの名だたる大都市に甚大な被害を与え、ホラズム・シャー朝は壊滅した。

チンギス・カンの本体はがズニーを領有していたホラズム・シャー朝の王子ジャラールッディーンを討伐するためにアフガニスタン方面へ進軍し。ホラーサーンのバルフやバーミヤーンなどの大都市をことごとく殲滅しながら南下して言った。しかしバーミヤーンではチャガタイの長男モエトゥゲンが戦死し、アフガニスタン中南部のバルワーンでは駐留していたボルテの養子シギ・クトクの軍がジャラールッディーンの軍に壊滅させられるなど手痛い反撃を受けてしまう。

チンギスはトルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させて自らの本軍とジョチ・チャガタイ・オゴデイ率いる諸軍を引き連れ、マーわらーアンナフルから南下してジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落として、捕縛はできなかったものの撃退することには成功した。

一方で、カスピ海まで逃げた君主アラーウッディーンを追ったジェベ・スベエテイ率いる別働隊はアラーウッディーンを逃がしたものの、そのまま捜索を続けてアゼルバイジャンからカフカスを抜けてロシアにいたり、ルーシ諸侯を破って勇名を轟かせた。

モンゴリア本土へ機関後、チンギス・カンは中央アジア遠征への参加の命令に従わなかった西夏への懲罰遠征に赴いたが、1227年、西夏を完全に滅ぼす直前に病没してしまう。

1200年代の中東地域最大の帝国!

モンゴル帝国の諸勢力の帰順

チンギス間は、戦闘による征服活動以外に、幾度かのモンゴル高原周辺の有力諸勢力にの帰順によって自勢力を遊牧政権の『国家』として段階的に発展させている。

1203年春にオン・カンの息子イルカ・セングン率いるケレイト王国軍と戦い、善戦するものの大敗を喫し、麾下の諸軍も潰走してしまう。この戸気張る住名と呼ばれる湖まで落ち延び、ジョチ・カサルなど一部の供回りと共にこの湖水をすすって再起を誓い合ったといわれている。程なくイルカ・セングンらが戦勝で油断していた隙を付いて、コンギラト、コルラス部族等の臣従を取り付けケレイト本軍の幕営に夜襲をかけて逆にケレイト王国を制圧してしまう。この時音・カンの弟ジャガ・ガンボが降伏し、その娘達がジョチやトルイと婚姻を結んでいる。

翌1204年には、オングトお受けが正式にチンギスに帰順し、モンゴル高原の勢力時が一変し、この年のうちにタヤン・カンを討ってナイマン王国を滅ぼし、メルキト部族連合を盟主トクトアもまた敗れて逃走し、ウワス・メルキと氏族の主張ダイル・ウスンは降伏・帰順した。

1208年に九度か・べき率いるオイラト部族が降伏・帰順しキルギスなどモンゴル高原の西部境域への制圧の足掛かりが出来る。このクドカ・ベキ家は一時チンギス・カン各王家の当主に準じるような主要王族達と婚姻関係を結んでいる。

西遼に臣従していた天山ウイグル王国国王バルチュク・アルト・テギンが離反してチンギス・カンに帰順し、同じ時期にウイグル同様に臣従していたホラズム・シャー朝とカラハン朝の離反に苦しんでいた西遼は急速に弱体化する。これらのオングト・オイラト・ウイグル、それぞれのモンゴル帝国への帰順は、それぞれモンゴル帝国にとって重大な転機となった。オングトの援助と帰順は窮地に陥っていたチンギス・カン陣営がモンゴル高原を統一するまでに一気に躍進した契機となり、また沈下いやタタ・トゥンガらウイグル系やアサンといった中央アジア系のムスリム勢力との接触の端緒となる。オイラトの帰順は西方境域への拡大、天山ウイグル王国の帰順は王国が保留していたウイグル系の官僚達を取り込み、その後の中国、イラン、中央アジア方面と言った農耕地域への征服を通じて支配領域を拡大していくが、彼らウイグル系やムスリム系の財務官僚達が、これら新期の領土における支配体制の確立に大きく寄与している。

特にウイグルの帰順は、ウイグル人官僚がテュルク語文語として確立してい古典ウイグル語や漢語、イラン系言語に通じていたため、帝国経営における財務関係のノウハウや人材を提供したことや、初期だけでなくモンゴル帝国全体のその後の農耕地域支配の基礎を整備し、帝国において遊牧以外の生産・財政基盤を確立したことから重大だ。オングトやカルルク、ウイグル王家などはモンゴル帝国の地域支配の要として『馬王家』というモンゴル王家に準じてコンギラト部族などとならぶ高い地位を得た。

第二代皇帝オゴディの時代

チンギス・カンの死後、生前の勅命によってモンゴルの全千人隊のうち、8割を占めるその直属軍は10万1000個が四男のトルイが相続し、トルイは監国としてモンゴル皇帝である次期大ハーンの選出を差別する役割を与えられた。このとき軍際に優れた長兄のジョチは既に亡くなり、財産の多寡でいえばトルイが圧倒的に優位であったが、次兄チャガタイら有力者達は、兄弟にいずれも中が良く、そのためチンギス・カンが生前に後継者とすることを望んでいた三兄オゴディを推薦する。その後、オゴディが無事即位し、トルイは帝国の分裂を防ぐために中央軍の指揮権を新モンゴル皇帝に譲ったといわれている。

父の死から二年後の1229年に即位したオゴディは、トルイと協力して金朝との最終戦争にあたり、1232年に金朝を完全に滅ぼした。トルイは金朝との遠征からの帰路に病没するが、これによってチャガタイの強い支持を受けたオゴディは皇帝としての地位を固め、1234年に自らの主導するクリルタイを開いてモンゴル高原の中央部に首都カラコルムを建設させた。

これ行こう、オゴディはカラコルム周辺の草原に留まり、遠征は皇帝ではなく配下の軍隊に委ねられるようになる。

オゴディの治世にはカラコルムを中心として行政機構が整備され、チンカイ、マフラード・ヤラワチ、耶律楚材ら様々な民族出身の書記官僚達による文章行政が行われた。中国や中央アジアでは戸口調査が行われ、遊牧民には家畜100に対して1が、農耕民には10の収穫に対して1が税となる十分の一税制が帝国全土に適用された。

帝国の主要感染路には一定距離ごとに駅伝がおかれ、モンゴル皇帝の発給した許可状を持った使者や旅行者、商人は帝国内を自由に行き来することが出来るようになった。

1235年、建設間もないカラコルムで開かれたクリルタイは、中国の南宋と、アジア北西のキャプチャク草原、及びその先に広がるヨーロッパに対するに大遠征軍の派遣を決定した。何層に対する遠征は司令官とされたオゴディの息子クチュの急死により失敗したが、ジョチの次男バトゥを司令官とするヨーロッパ遠征軍はヴォルガ・ブルガール侵攻やルーシ侵攻をしてロシアまでの全ての遊牧民の世界を征服し敢行して、ロシアまでの全ての遊牧民の世界を征服し、遠くポーランド、ハンガリー、などの東ヨーロッパまで席捲した。

これを見るに、チンギスが残した遺産たちがその後の帝国の発展のために行った遠征がやがて中東地域はおろか、ロシアに果ては東ヨーロッパにまでその勢力を伸ばしていくモンゴル帝国の勢いがものすごいものだったことが文献からでも分かる。

そんな帝国のポーランド侵攻を食い止めようと、ポーランド王国、神聖ローマ帝国、そしてテンプル騎士団やドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団などのヨーロッパ連合軍抵抗を試みたが、手も足も出なかった。これが後にヨーロッパで恐れられ語り継がれることになる『レグニツァの戦い』である。

オゴディは即位する前の1228年に、ホラズム・シャー朝のジャラールッディーンがインドからイラン高原に帰還したとの情報を受け、監国となっていたトルイとともに協議、イラン方面へチョルグマンを司令とする鎮戍軍の派遣に合意している。翌年いは皇帝に即位するとき、改めてチョルグマンに四つの万戸隊を授け、ジャラールッディーン討伐のためチョルグマン率いるタマ軍をアムダリヤ川を渡河させてイラン入りさせている。ZYらーるっディーンはイラン高原に戻った者の、イラン高原西部の諸政権やアッバース朝カリフとも衝突を繰り返し、アゼルバイジャンのエルデギス朝を滅ぼすなどしたものの、これらの地域からの支配権の承認はついに得られなかった。

1231年、チョルグマン率いるイラン鎮戍軍はジャラールッディーンの軍勢がイラン西部の諸勢力との紛争の末孤立したところを急襲してこれを撃破した。ジャラールッディーンは逃亡中にクルド人兵士によって殺害され、ホラズム・シャー朝は完全に滅亡した。しかし、このモンゴル帝国のイラン鎮戍軍もイラン高原の完全征圧・周辺諸政権の屈辱・帰順工作は一気に進まず、西南アジア地域におけるモンゴル支配の転機は、オグディの死の直後の1243年のキョセ・ダグの戦いにおいて、チョルグマンから鎮守軍の指揮権を継いだバイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍がルーム・セルジューク朝軍を打ち破り、ルーム・セルジューク朝、アルメニア王国、グルジア王国などがモンゴルと殺戮のみで通過しただけあったイラン高原は、鎮守軍の軍事的支配と総督分の財政的な掌握によって徐々にモンゴル帝国の支配地域として組み込まれていく。オゴディの治世にはこれ以外にも小売を征服し、イラン・インドなどにも遠征軍を派遣され、モンゴル帝国は膨張を続けた。

テムジンが、チンギス・カンに?

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モンゴルの広大な大地を!


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