映画『モンゴル』から見るモンゴル帝国とチンギス・カン

1200年代の中東地域最大の帝国だった!

モンゴル帝国・建国2

皇帝位を巡る抗争

1246年にオゴディが急逝し、翌年にはチャガタイが病死すると、チンギス・カンの実子がいなくなった帝国には権力の空白が訪れる。次期モンゴル皇帝の選出作業にはオゴディの皇后ドレゲネが監国にあたったが、ドレゲネがオゴディの生前に指名した後継者シムレンを無視して自身の子であるグユクを擁立しようとしたため、皇帝の選出が遅れてしまう。

ようやく開催されたクリルタイはグユクを皇帝に指名したが、グユクと仲の悪いバトゥは、兄弟たちを出席させたものの自身は病気療養を口実にクリルタイを参加しなかった。皇帝のグユクと西方の有力者バトゥの対立により、帝国は一時分裂の危機に陥るが、グユクは即位わずか二年後の1248年に病死する。

ドレゲネが息子可愛さに皇帝へと即位させたものの、王の意向に背いた結果わずか2年の治世しか保てなかったということだ。結局シムレンを順当に皇帝にしていればまた時代の流れは変わっていたのかもし照れない。

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グユクの死後、監国となった皇后オグルガイミシュは続いてオゴディ家から皇帝を選出しようとクリルタイを収集したが、バトゥは叔父と類の未亡人ソルコクタニ・ベキと結んでトルイの長男モンケを皇帝に即位させようと目論見、またしてもクリルタイを欠席する。オグルガイミシュにはオゴディ家とチャガタイ家、ソルカクタニにはジョチ家とトルイ家が付き、両陣営は後継者を巡って水面下の対立を続けた。

1251年、トルイ家の両陣営はついにオゴディ家・チャガタイ家の説得を諦め、ジョチ家の協力を受けて自領内のチンギス・カンの幕営においてモンケの即位式を行うという強攻策に出る。モンケは即位するや否やオゴディ家とチャガタイ家の有力者に皇帝暗殺を計画した疑惑をかけて弾圧し、オグルガイミシュ以下の有力者は処刑され、オゴディ家とチャガタイ家のウルスは解体寸前にまで追い込まれてしまう。

その後モンケはオゴディが行った占領地域に統治政策を受け継ぎ、帝国のうち定住民が居住する地帯をゴビ砂漠以南の漢地、感慨山脈異性の中央アジア、アムダリア川、以西の西アジアの三大ブロックに分けて地方行政期間を再編した。『元史』に載るいわゆる燕京等處行尚書省、別失八里等處行尚書省、阿母等處行尚書省の3つの行尚書省がこれにあたり、マフムード・ヤラワチやサイイド・アジャッル、マスウード・ベク、アルグン・アカといった財政官僚達がこれらの管轄やその補佐として各地に任命された。さらに、三人の同母弟のうち、次弟のクビライを漢地の軍団の総督、三弟のフレグを西アジアの軍団の総督に任命してそれぞれにその方面の征服を委ねた。

クビライは1253年雲南・大理遠征にて大理国を征服し、フレグが1256年にはアラムートの二ザール派を、1258年にはバグダートのあっばーず朝を壊滅させる一方で、かねてからモンケに服従を表明していたアナトリアのルーム・セルジューク朝やファールス州にアタベク政権サルグル朝、ケルマーン州のカラヒタイ朝などのムスリム諸政権に加え、大小アルメニア王国やグルジア王国など、イラン以西の諸勢力の掌握に務めた。さらにモンケは南宋との決戦のため自ら長江上流域に侵入したが、苦戦を重ねた末に1259年に陣中で疫病にかかって死亡する。

モンケの市は1260年春頃に征西中のフレグに届き、フレグの本隊は西進を中止して帰還を開始した。フレグが帰還した結果、モンゴル軍はアイン・ジャールートの戦いに敗れ、シリア一帯をマムルーク朝に譲り渡すことになった。

首都カラコルムにあって留守を守っていたのは末弟のアリクブケであった。アリクブケはモンケの旧政府の支持を受け第五代モンゴル皇帝に即位しようとしたが、南宋遠征で別働隊を率いて中国にいた次兄のクビライが中G工、及び南モンゴリア、そして東モンゴリアのチンギス・カン諸弟のウルスの支持を受けて、南モンゴリアのドロン・ナウルで自らモンゴル皇帝に即位した。続いてあり部くけも即位し、モンゴル帝国は南北に二人のモンゴル皇帝が並立する分裂状態となる。

1200年代の中東地域最大の帝国!

この内紛の最中に、西アジア方面軍の総督であったフレグは編むか内政の行政機関を支配下に置き、イランに留まって西アジアを支配する自立政権、イルハン朝を建設した。それまでの帝国内諸ウルスは、帝国中央から直属の遊牧民を分与され、西アジア方面群を認められていたが、例えその勢力圏であろうと、都市や定住民の統治は帝国中央の大ハーンの統治下にあった。イルハン朝は西アジア方面軍の将兵として配下にあった遊牧騎士だけでなく征服地の都市や定住民も統治下に置き、大ハーンの権威を戴きつつも領域国家としての自立性を持った最初の帝国内勢力となった。これは後にモンゴル帝国が四つの領域国家が大ハーンの権威の元に緩やかに連合する体制に移行する

嚆矢となる。

イルハン朝は南カフカスの草原地帯の支配を巡ってジョチ・ウルスを継承したバトゥの弟ベルケと対立し、両政権は東方での大ハーン位の空席と武力による争奪戦という帝国の一大事を全く無視して争い始めた。また、モンケの弾圧以来低迷していた中央アジアのオゴディ・ウルス、及びチャガタイ・ウルスは大ハーンに争いの間に勢力を盛り返そうと蠢動した。

1264年、クビライがアリクブケを破り、単独のモンゴル皇帝となったとき、モンゴル皇帝の影響力が直接及ぶのはモンゴル高原、天山ウイグル王国、チベットより東側のみになっていた、モンゴル帝国がバトゥのヨーロッパ絵院生、フレグの征西のように帝国の全力を挙げて遠征を遂行することは不可能になり、帝国の膨張は東アジアを除いて停滞に向かう。

クビライは帝国の分裂的な状況を追認して、フレグのイラン支配を認めると共に、中国を安定的に支配することを目指し様々な改革を打ち出した。

1271年、クビライは大ハーンの支配する国の国号を大元と改め、1276年には南宋の首都杭州を降して肥沃な江南を支配下に加える。しかしこの間、様々な問題が噴出し、事態は混迷していった。

まず、アリブクケの命によってチャガタイ当主となったアルグだったが、この命に従わずにクビライ支持を表明してアリブクケから離反・反乱を起こし、ついには打ち破りアリブクケ一党の降伏とクビライの勝利を確実にする。

1264年、クビライはアリブクケの降伏によって帝国中枢の混乱を一旦収束させると、統一クリルタイの開催を帝国全土に呼びかけた。西方のイルハン朝のフレグとジョチ・ウルスのベルケはカフカス以南での度重なる戦闘でこう着状態に陥っていたため、この呼びかけに応じた。

クビライの大ハーンに宣言は自己の勢力のみで行ったクーデター同然の無理やりの即位であったため、モンゴル帝国である大ハーンの即位式は、アルグ・フレグ・ベルケの三者を介してのモンゴル全王家臨席の正式なクリルタイが必要だった。

しかし、1265年2月にフレグが突如死去し、続いて1266年始めにはこれを後期としてカフカスを南進してきたベルケも陣没、チャガタイ・ウルスを支配するアルグも程なくして死亡するという一連の事態によって、西アジア・中央アジア情勢は再び不穏となった。クビライは緊急措置としてイルハン朝の後継者としてフレグの長男アバカを任命し、ジョチ家の当主にはバトゥの孫、モンケ・テムルを任じ、アルグに川ってチャガタイ家の当主には、第二代当主カラ・フレグとその后オルガナとの息子ムバーラク・シャーを任命した。

このとき、ムバーラク・シャーはまた成人間もないため、クビライはカラ・フレグの甥に当たるバラクを重ねて派遣してチャガタイ家を共同統治させることになった。ところがムバーラク・シャーとオルガナの元に至ると、バラクが両者を抑えてチャガタイ家の当主位を奪ってしまう。

一方同じ時期にオゴディ家の有力者かいどぅは、クビライとアリブクケのカーン移送ダルの合間に、一連の混乱やモンケの粛清によってモンゴル草原から追われた王族やその他の勢力を糾合し、勢力を伸長させていた。

かいどぅ度重なるクビライからの召還を口実に設けて逃れていたが、1268年についにいみる河畔でカイドゥはクビライに対して公然と反旗を翻した

クビライのバラク派遣はカイドゥに対するけん制、又は屈服させる意味合いが強かったが、チャガタイ家の当主位を奪ったバラくはこれに反してこのオゴディ家の有力者カイドゥと協定を結び、ブハラやサマルカンドを始めとするモンゴル皇帝直轄であったマーワラーアンナフルの諸都市を接収した。しかし、程なくしてその配分を巡って徐々に対立を深めていく。一方、チンギス・カンのホラズム・シャー朝征討以来マーワラーアンナフルに多くの権益を有していたジョチ・ウルスでは、新当主モンケ・テムルがこれらカイドゥと茨区の同棲を強く警戒し、カイドゥに対して一軍を派遣してこれをけん制した。カイドゥはモンケ・テムル側と和平を結び、逆にバラクに対してジョチ・ウルス左翼の総帥でるオルダ家当主のコニチ以下五万騎の援軍をもって破った。

この戦いに敗退したバラくはチャガタイ家に約束された中央アジアの取り分を主張し、カイドゥ側の王族達を説得してクリルタイの開催を訴えた。こうして1269年にジョチ・ウルスの代表者でベルケの次弟ベルケチェルらの臨席の下、カイドゥとバラク側の王族達は会盟して中央アジアの大ハーン領を3王家の間で分割した。バラ区がマーワラーアンナフルの三分の二、残り三分の一はモンケ・テムルとカイドゥが分割するという取り決めで、なお不足するバラクの分はアムダリア川を超えてイルハン朝のアバカが治めるイラン領域を奪取することにより、1269年秋にバラくはカイドゥ側の王族達を引き連れてアムダリヤを渡ってホラーサーン地方へ侵攻した。ジョチ・ウルスはクビライと事を構えるつもりはなかったようだが、現実に中央アジア支配下においているのではカイドゥ率いるオゴディ家と、チャガタイ家及びクビライの派遣した中央遠征軍を指揮したバラクであったので、マーワラーアンナフルの利権を守るためバラク側の要求に応じざるを得なかったのではないかと、現在では考えられている。

しかし途中でバラくは彼らはオゴディ家の人々と不和になり、加えて1270年7月20日、ヘラート近郊のカラ・スゥの地でアゼルバイジャン地方から迎撃に出たアバカ軍の総攻撃にあい、大敗北した。

さらに1271年にはブハラまで敗走したバラクが急逝してカイドゥが中央アジアの最有力者となり、1282年に即位したバラクの遺児ドゥアやクビライに対して反乱を起こしたアリブクケの遺児メリク・テムルらはカイドゥの庇護下に入った。

中央アジアに誕生したこの勢力はカイドゥ王国などと呼ばれる。アバカはカラスウの勝利ののち、1270年11月7日にクビライからの使節団によって、正式にイラン地域の支配を認めた王冠、封冊の賜衣、封冊書を拝領し加えてジョチ・ウルスのモンケ・テムルからもハヤブサなどの祝賀の献上品を受領して、イランにおけるフレグ家の支配がモンゴル皇帝とジョチ家という二大勢力から正式に認証されることとなった。カイドゥはクビライの元と真っ向から対立し、モンゴリア及び中央アジアの支配を巡って長く抗争を続けるが、1301年に戦死した・カイドゥの死を持ってカイドゥ王国の有力者となったドゥアはカイドゥ王国の有力者となったドゥアはカイドゥの遺児チャバルを説いて時の君主であるクビライの孫テムルに和睦を申し出た。続いてドゥアは元と結んでチャバルを追放、オゴディ・ウルスをチャガタイ・ウルスに併合して、カイドゥの王国は中央アジアを支配するチャガタイ・ハンに変貌する。

こうしてモンケの死より40年以上にわたった内部抗争は終結し、モンゴル帝国は東アジアの大元ウルス、中央アジアのチャガタイ・ウルス、キプチャク草原のジョチ・ウルス、西アジアのフレグ・ウルスの4代政権からなり、源をすべる大ハーンを盟主とする緩やかな連合国家に再編された。

モンゴル帝国の再編と共に、ユーラシア大陸全域を覆う平和の時代が流れ、陸路と海路には様々な人々が自由に行き交う時代が生まれた。モンゴルは関税を撤廃して商業を侵攻したので国際公益が隆盛し、モンゴルに征服されなかった日本や東南アジア、インド、エジプトまでもが海路を通じて交易のネットワークに取り込まれた。後年、この繁栄の時代をバクス・モンゴリカと呼ぶ。

しかし、平和と反映の時代も長くは続かず、減では1307年のテムルの死後、君主位を巡る対立と抗争が相次ぎ、1323ねんに君主暗殺事件が起こってからは次々に君主が交代して王朝の安定が失われた。さらにモンゴル諸政権の安定にとどめをさしたのは黒死病の大流行とする疫病と天災の続発であった。

ドゥアの子が相次いで当主に立っていたチャガタイ・ウルスは、1334年の当主タルマシリンの死後、東西に分裂してしまう。イルハン朝では1335年にアブー・サイードが没した後に後継者争いの末にフレグの王統が断絶、銃オチ・ウルスでは1359年に左翼諸家の当主オルダ家に続いてジョチ家宗家であるバトゥの王統も断絶し、傍系の王子達を擁立する有力者同士の争いが起こって急速に分裂していった。

大元ウルスでも1351年に起こった紅巾の乱によって、経済の中心であった江南を失い、1368年、ついに紅巾党の首領の一人であった朱元璋の立てた明によって中国を追われた。北本と呼ばれるようになった元はモンゴリアによって民への抵抗を続けるが、1388年にクビライ王統最後の大ハーン、トグス・テムルが内紛によって殺害され、かつてモンゴル帝国を構成した諸部族は分裂してしまう。

しかし大元ウルスが北走してからも14世紀後半には東はモンゴリアの北元から西はイラクのジャライル朝まで大小さまざまなモンゴル帝国の継承政権があり、その政治・社会制度の残滓はそれよりはるか後の時代になってもユーラシアの広い地域まで見られた。モンゴルを倒して漢民族王朝を復興したとされる明においてもその国政はおおむね元制の踏襲であり、例えば軍制の衛所制が元の千戸所・万戸府制の継続であることは明らかだ。

同じ頃、中央アジアから西アジアに至る大帝国を築き上げたティムールは、先祖がチンギス・カンに仕えた武将に遡るバルラス部の貴族出身であり、その軍隊は全く西チャガタイ・ハン国のものを継承していたのみならず、彼自身やその後継者は国家の君主を名乗らず、名目上はチャガタイ家当主であるカンの女婿と称していた。

そしてチンギス・カンの名とその血統はその後も長らく神聖な存在であり続ける。東ヨーロッパのクリミア半島では1783年まで、中央アジアのホラズムでは1804年まで、インド亜大陸では1857年まで、王家がチンギス・カンの血を引くことを誇りとするモンゴル帝国の継承政権が存在していた。また、かつてのジョチ・ウルス頭部に広がった遊牧民カザフの間ではソビエト連邦が誕生する20世紀初頭までチンギス・カンの末裔が指導者層として社会の各方面で活躍した。

また、2004年にオックスフォード大学の遺伝学研究チームの方向によると、チンギス・カンは最も遺伝子を残した人物とし、その数はアジア・ヨーロッパを中心に1600万人いるとされている

モンゴル帝国の故地モンゴリアでは、15世紀の終わりに即したクビライの末裔ダヤン・ハーンの下で遊牧民族の再編が行われ、世代を重ねるごとに分家を繰り返したダヤン・ハーンの子孫達が諸部族の領主として君臨するようになる。17世紀には満州人の体制がダヤン・ハーンの末裔チャハル部から元の玉璽を譲り受け、大元の権威を継承して満州・モンゴル・中国・の君主となる手続きをとり、新たにモンゴルの最高支配者となっている。新元でもダヤン・ハーンの末裔の王族達は領主階層として君臨し続け、近代のもカザフのチンギス・カンの末裔達と同様に社会の指導者層として活躍した。清の元でもダヤン・ハーンの末裔の王族達は領主階層として君臨し続け、近代にもカザフのチンギス・カンの末裔達と同様に社会の指導者層として活躍した。

現在のモンゴル国や内モンゴル国境や社会組織は寝台のものを継承しており、モンゴル帝国の影響は今も間接的に残っている。

途中内紛などで国が分裂するということもあったものの、最終的にはチンギス・カンの血統を神聖なものとして、子孫達は現在の時代でも人を導く立場に立っていることから、彼の残した功績は後の世にまで語り継ぐことになる。


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