1200年代の中東地域最大の帝国だった!
モンゴル帝国の軍隊は、十進法単位で編成された万人隊・千人隊・百人隊・十人隊に基づいて形成される。
千人隊は遊牧民の社会単位でもあり、日常から各隊は長の帳幕を中心に部下の帳幕が集まって円陣を組むクリエンという社会形態をつくって遊牧生活を送っている。時に遊牧を共同で行い、集団で狩を行って、団民達との連携と規律を高めていた。
遠征の実施が決定されると、千人隊単位で一定の兵数の供出が割り当てられ、各兵士は自弁で馬と武具、食料から軍中の日用道具までの一切自分達で用意する。
軍団は厳格な上下関係に基づき、兵士は所属する十人隊の長に、十人隊長は所属する百人隊の長に、百人隊長は所属する千人隊の長に絶対服従を求められ、千人隊長は自身を支配するカアンや王族、万人隊長の指示に従う義務を負った。軍規違反に対しては過酷な刑罰が科せられ、革袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏みつぶしたり生きたまま釜ゆでにしたりすることもあったという。
このように、モンゴル軍の主力となる軍隊は本来が遊牧民であり遊牧生活を基本としていたので、放牧に適さない南方の多湿地帯や西アジアの砂漠地帯や水上の戦闘では、弱点を補正するため、ルーシ、アナトリア、イラク、イラン、中央アジア、キプチャク草原、中国などの被支配民族である定住民から適宜徴募した兵士の割合が増加した。
被支配民族の軍は、東アジアの元の場合では、世襲の農地と免税特権を与えられた軍戸に所属する者から徴募された。その軍制は遊牧民による千戸制の仕組みを定住民にあてはめたものであり、軍戸は百戸所、千戸所と呼ばれる集団単位にまとめられ、ある地方に存在する複数の千戸所は万戸府に統括される。兵士の軍役は軍戸数戸ごとに1人が割り当てられ、兵士を出さなかった戸が奥魯となってその武器や食料をまかなった。
元軍は、右翼・中軍・左翼の三軍団に分けられ、中軍の中にもそれぞれの右翼と左翼があった。これはモンゴリアにおける平常の遊牧形態を基本としており、中央のカアンが南を向いた状態で西部にある遊牧集団が右翼、東部にある遊牧集団が左翼となる。また、それぞれの軍団は先鋒隊、中軍、後方輜重隊の三部隊に分けられた。
先鋒隊は機動力に優れた軽装の騎兵中心で編成され、前線の哨戒や遭遇した敵軍の粉砕を目的とする。中軍は先鋒隊が戦力を無力化した後に戦闘地域に入り、拠点の制圧や残存勢力の掃討、そして戦利品の略奪を行う。全軍の最後には、後方隊が家畜の放牧を行いながらゆっくりと後に続き、前線を後方から支えた。後方隊は兵士たちの家族など非戦闘員を擁し、征服が進むと制圧の完了した地域の後方拠点に待機してモンゴリア本土にいたときとほとんど変わらない遊牧生活を送る。前線で一定の戦闘行為が終了すると尖兵たちは広報の安全圏まで対比し、補給を受ける。部隊の間では騎馬による伝令が行われ、王族。貴族であっても伝令に会えば道を譲らなければならないという決まりもあった。
「黄金の氏族」と呼ばれた一族とは
西川口駅はロータリーから少し入ると、飲食店などの歓楽街と並木通り商店街があり、ブックオフ、ドンキホーテ等もありますので、日常生活品には不自由なく、とても便利な街です。西川口の賃貸の情報はトーヨーホームズまで!中には急を要する案件も含まれていたため、その報せが司令部へと迅速に届けることが最優先であったことがよく分かる。
個々の兵士は全員が騎馬兵であり、速力が高く射程の長い複合弓を主武器とした。遊牧民は幼少の頃から馬上で弓を射ることに慣れ、強力な弓騎兵となった。兵士は遠征にあたって1人あたり7~8頭の馬を連れ、頻繁に乗り換えることで驚異的な行軍速度を誇り、軽装騎兵であれば1日70kmを走破することができた。また、衰え弱った馬を解体して食糧、武器、衣類と徹底的に利用したため、編成や食糧調達に長い時間を割かれる心配が少なかった。
これを見るだけで、この遠征でどれくらいの距離を動くことが出来て、またいち遠征時における軍隊の長さが驚異的な人員が動員されていたということがわかるだろう。
戦闘では遊牧国家のひとつであった匈奴以来の伝統を引き継ぎ、弓矢と最低限の防具・刀剣で武装した主力の軽装騎兵により敵を遠巻きにしつつ矢を射て白兵戦を避け敵を損耗させた。また、離れた敵を引き寄せて陣形を崩させるために偽装退却もよくとられた。弓の攻撃で敵軍が混乱すると、全身甲冑を着け刀剣、鎚矛、戦斧、槍を手にした重装騎兵を先頭に突撃が行われ、敵軍を潰走させた。
追撃の際、兵士が戦利品の略奪に走ると逆襲を受ける危険があったことから、チンギス・カンは戦利品は追撃の後に中軍の制圧部隊が回収し、各千人隊が拠出した兵士の数に応じて公平に分配するよう定めた。
確かにこうして決まりを定めることにすれば、前線は戦いに集中することができて、後から来た後続が戦利品を得て、その後均等に分配するとなれば、話がややこしくなることも少ない。しかし逆に均等にすることにより、前線の人間からすれば納得できないと思うことも十分ありえるが、それが頻発して起こって入ればチンギス・カンの治世は長く続いていなかったといえるが、そうならなかったということは、それだけの指導者の言葉とした皆納得していたといえるだろう。
さて、城攻めの場合はモンゴリアにほとんど都市が存在しないため得意でなかったが、中国や中央アジアの先進的技術と技術者を取り込み対応した。金に対する遠征では、漢人やムスリムの技術者を集め、梯子や楯、土嚢などの攻城兵器が導入され、中央アジア遠征では中国人を主体とする工兵部隊を編成して水攻め、対塁建築、掘り崩し、火薬による破壊といった攻城技術を取り入れた。中央アジア遠征ではサマルカンドで火炎兵器の投擲機、カタパルト式投石機などの最新鋭の城攻兵器の技術を入手するが、これらはホラズムやホラーサーンの諸都市に対する攻撃で早くも使われた。
様々な民族を取り入れた複合軍隊ならではの戦法といえるため、当時の東ヨーロッパを始め、侵略された国々が苦戦していてもおかしくないだろう。
城攻めにあたってはあらかじめ降伏勧告を発し、抵抗した都市は攻略された後に他都市への見せしめのために略奪された。特に、降伏勧告のために派遣した使者が殺害されたり包囲中に主要な将軍が戦死した場合など、報復として降伏した後でも住人が虐殺される例もまま見られた。
『従うものは生かす、従わないものには死あるのみ』、と有無を言わさない戦法のため、そんなやり方に納得できなった国も多かったのだろが、圧倒的な戦力差によって殺されていく人々の断末魔はその後の戦いでも響いていたのだろう。
その攻撃は熾烈を極めチンギス・カンの中央アジア遠征のとき、バーミヤーン、バルフなどの古代都市はほとんど壊滅してその後も再建されず歴史上から姿を消す。反対に降伏した都市に対しては法外でない程度の税金を納めさせ、モンゴルへの臣従を迫り、モンゴル帝国の監察官(ダルガチ)を置く以外は以前と変わらない統治を許しており、住民の宗教に対しても基本的に干渉せず寛容政策を取った。
そんな仲でのチンギス・ハンのとある事例として、ブハラを制圧する直前にブハラの郊外にあった村落で、後の初代カシミール鎮守軍司令となるコンゴタン部族出身の将軍タイル・バアトルはこれに降伏勧告を行い降伏に従った場合は命の安全と、しなかった場合の報復を伝えたという。住民達は度重なる使者の到来の結果、ついにチンギス・カンの下に献上品を携えて代表者を送り出して降伏を申し出た。
これに応じたすぺえいが派遣され、住民に対してモンゴル軍は住民の命を保証し、家畜・農具を奪わないということを明言する。しかしその後住民にはその他の一切のものを携帯せずに村落の外に出ることを命じた。
村落が明け渡されると、モンゴル兵によってこれは掠奪された。その後チンギス・カンに租税としていくら奉納したのかと尋ねられ、住人達は1500ディナールと答える。そのため、チンギス・カンはその金額を自らの前衛軍に納付することを明示、これ以上は徴収しないと保証した、と伝えている。ヌール村に課された租税については、婦女子達の耳輪だけでたちまちその半分の額が集まったという。
このように降伏した都市に対しては法外でない税金徴収し、モンゴルへの心中を迫り、モンゴル帝国の監察官を置く以外で、以前と変わらない生活を送ることが出来、また住民の宗教に対しても基本的に干渉せずに寛容制作を行っていた。
普通ならありえないことだろう、征服したなら自分達を崇拝するようにするのが支配者としての一般的なあり方だ。それを民の意思を尊重して、人としての自由を約束しているというこの姿は、その世界の中で理想的にもいえる支配環境ではないだろうか。
チンギス・カン自身、支配されること、圧迫されることの苦しさを知っているからこその政策なのではないだろうか、と筆者は思う。
モンゴル軍の遠征における組織だった軍事行動を支えるためには、敵情の綿密な分析に基づく綿密な作戦計画の策定が必要であり、モンゴルは遠征に先立ってあらかじめ情報を収集した。実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力がいれられる。また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていた。
チンギス・カンの中央アジア遠征の場合、連戦連勝で進んだモンゴル軍はアム川を越えてホラーサーン、アフガニスタンに入るとしばしば敗戦も喫し、遠慮のない破壊や虐殺行為があったが、これらはホラズム・シャー朝が予想以上の速さで崩壊してしまったことが原因だったのではないかとも言われている。
中央アジアの諸都市でもそれぞれで数十万人の住民が虐殺されたとされ、バトゥのヨーロッパ遠征で滅ぼされたルーシの中心都市キエフは陥落後10年経っても人間の姿が見られなかったという。モンゴル軍の残虐さを物語る逸話はユーラシアの各地に数多く残る。
名声がある分、その文虐殺などの悪逆非道の行為の影の強さも象徴してしまうので、必ずしもチンギス・カンが賢い王だったとはいえないだろう。
元寇での例では、1275年に書かれた日蓮書簡によれば文永の役において対馬の住民が捕虜となった際に捕らえられた女たちは手に穴を空けられ、それに綱を通されて船の側壁に貼り付けされたと伝えている。しかし、中央アジアではこの時代のオアシス都市の人口規模としてはありえない数十万人の住民が殺害されたと記録されてしまっており、なおかつそうした都市がしばしばモンゴル帝国統治下で大人口のもと繁栄を続けていることが確認されている。日蓮が伝える文永の役での対馬や壱岐の捕虜の話しも、日蓮の建治年間以降の書簡では文永の役での戦渦を語る際に住民が虜囚となって連行されたことは触れられるものの、「手につなを通し」というショッキングな内容にも関わらず文面に表れなくなり、実際にそのような捕虜の生命や価値を損ねる行為がされたのか疑問視されている。日蓮が不確かな情報を仄聞して記録した可能性もあると考えられている。従って、このような言い伝えや歴史記録には大きな誇張が含まれるとされている。
さらに、抵抗した住民を皆殺しにする恐怖のモンゴル軍のイメージは、戦わずして敵を降伏させるためにモンゴル自身の手で積極的に宣伝された情報戦術のひとつだったのではないか、とする分析がある。実際モンゴル軍は降伏した都市に対しては大抵以前の統治を容認し、モンゴルへの臣従と税金の納入、モンゴル帝国の監察官の配置を求めるぐらいしかしなかった。
ではどうしてココまで誇張した内容が伝えられているのか、と考えられえるが、あくまで憶測として、チンギス・カンの存在を良く思っていないものが端を発してうわさを流し、それが現実で起こったことのように解釈されしまったのではないのか、と筆者は思う。
実際にうわさは多少の信憑性は持っていたとしても、真相は当人しか分からないのだ。しかしうわさとなればそれだけで十分なのである、それだけ効果があることは皆が分かっていることだろう。
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