1200年代の中東地域最大の帝国だった!
映画『モンゴル』は若き日のチンギス・カンの人生を描いたドイツ・カザフスタン・ロシア・モンゴル合作映画。
日本での公開は2008年4月5日。
モンゴル帝国の創始者である『チンギス・カン』の生涯のうち、父を殺され囚われの身となった少年時代から、数々の苦難を克服したモンゴル草原の支配者となるまでの日々を描いた作品である。
撮影は中国の内モンゴルで、2005年8月から11月まで、新羅ウイグル自治区で2006年7月から11月まで行われた。またこのほか、カザフスタンでも撮影が行われた。
チンギス・カン役は日本人俳優『浅野忠信』。
映画は前編モンゴル語で撮影が行われ、浅野さんもモンゴル語で劇中全て話していた。学習方法としてCDに録音された門後津後のせりふを毎日聞いて覚えたが、撮影一週間前には台本が全て変更になるという事態に見舞われた。乗馬は日本の乗馬クラブに一年間通い詰めて習得したと語っている。浅野さん以外の日本人製作スタッフとして、アソシエイトプロデューサーに『浅井隆』・衣装に『ワダエミ』が参加している。
第80回アカデミー外国語映画賞に、カザフスタンからの映画としてノミネートされたが、受賞は逃す。その後、日本では企画制作会社ら輝名が買い付け、その親会社である配給工業会社『ティ・ジョイ』が東映と共同で配給した。
本編DVDは2008年10月21日。
12世紀のモンゴル、一部族の頭領イェスゲイの息子テムジンが誕生する。
テムジンが9歳の頃、敵対するメルキと部族から花嫁を選び友好関係を結ぶために父と旅に出る。
イェスゲイには、メルキト部族からテムジンの母となる人を略奪した過去があった。しかし途中立ち寄った村で、テムジンは少女ボルテを許婚として選ぶ。その帰路、イェスゲイは敵対するタタール部族に毒殺される、父を失ったテムジンは、頭領の座を狙うタルグタイの裏切りにより、家財を奪われ命を狙われることになる。
テムジンは過酷な自然の中に身を潜め何を乗り切ろうとするが、凍てついた池に落ちてしまう。そこへ逞しい少年ジャムカに救われ、二人は兄弟の契りを交わすことになる。
タルグタイの暗殺の手を逃れ成長したテムジンは、許婚ボルテを迎えに行く。ボルテもまたテムジンを待ち続けていたのだ。
しかしメルキト部族騎馬軍団の奇襲にあってしまい、テムジンは弓矢に貫かれてしまう。テムジンを救うために、ボルテは自らを人質にとメルキト部族へとその身を投じる。
翌年、傷も癒えたテムジンは多くの戦士を抱えるジャムカと共にメルキト部族に攻め入る。テムジンは激闘の末、ボルテを見つけ出す。ボルテはメルキト部族の子供を宿していたが、テムジンは我が子として慈しむ。そんなテムジンの寛大な精神は、ジャムカの戦士達を惹きつけてしまい、彼についていこうとするものが続出してしまう。
当然のごとく、ジャムカはそんなテムジンに激しい憎しみを抱くことになり、テムジンを倒す覚悟を決める。そこへ機会を待ち続けていたタルグタイがジャムカと結託し、ジャムカの軍団が、テムジン率いる人々を襲う。テムジンは家族を逃がし、数で劣勢な戦いに挑むが、ついに捕らえられてしまう。
ジャムカはテムジンを殺すことを忍びなく、命乞いを要求するも、テムジンは応じなかったため、部下達と共に奴隷として売られ、中国西北部タングート族の地で投獄されてしまう。
それから数年の歳月の後、ボルテの身を挺した尽力により、テムジンは無事に生還する。その後テムジンは、乱れきったモンゴルに規律をもたらそうとする決意を固め、ジャムカの大群との決戦を挑むことになるのであった。
その後ジャムカ率いる大軍に勝利し、テムジンはモンゴル統一に成功する。
しかしテムジンはそれでは満足することなく、更なる統一という野望に向かって突き進んでいくのであった
以上が簡単なあらすじである。既に公開されてから5年近く経っているので、ネタバレ晒しはご勘弁ください。
1970年代後半から映画製作を始め、これまで20本以上の作品を監督している。
監督デビュー作である1985年の『Neprofessionaly』にて、トリノ国際映画祭の審査員賞を受賞。続く1989年の『自由パラダイス』にてモントリオール世界映画祭の最優秀作品賞を受賞、さらにベルリン国際映画祭のウォルフガング・シュタウデ賞を受賞するなど、国際的な評価を確実なものにした。
1996年の『コーカサスの虜』、2007年の『モンゴル』と、二度に渡りアカデミー外国語映画賞にノミネートされた。
2002年に俳優である息子セルゲイ・ボドロフ・Jrが映画撮影中の雪崩で死亡している。
監督
壮大な英雄の叙事詩
壮大な英雄の叙事詩映画。少年のころから、モンゴル民族を束ねる英雄になるまでを描くが、少年時代と青年時代が中心。あきれるまでにすさまじい過酷な日々。何度も何度も捕らえられ、足かせをはめられ・・・なおも立ち上がるチンギス・ハーン。どこまで史実か判然としないが、仮に半分だけとしても、想像を絶する。苦労しないと英雄にはなれないんだね・・・ただ超人であるというので終わっているような気がする。もう少し内面的な葛藤を掘り下げて描いてほしかった。
器
モンゴルの有力部族の子、テムジン。父と出かけた妻を娶る9歳の旅路で人生が一転し・・・・
セルゲイ・ボドロフ監督はロシア人であることを意外に思ったのですが、歴史を語る上で、隣国でもあるロシアとの関係は切っても切り離せないよう。
それ以外にもドイツ、カザフスタン、その他の国の尽力があってこの映画は完成、日本からは浅野忠信がテムジンとして、後のチンギス・ハーンを好演。
モンゴルという国、チンギス・ハーンと言う人物、私達は名こそ知っていても、彼らの文化や思想を深く知る人は多くないでしょう。
この映画には、部族やモンゴル人としての誇りや戒律といったこと、日本人である私達からすれば、やや理解しづらい部分も描かれています。
今を去ること800年前、20年にわたりモンゴルを統治したチンギス・ハーン。
この英雄の活躍を軸に、もう一つの軸として、夫婦の情愛があり、第一皇后ともなったボルテとの馴れ初めから、苦難の道のりを越える過程、
国祖となるテムジンの器の広さを身近な妻子、部下をもってよく描かれています。
ジャムカの最期、タングート王国などは脚色があるようですが、それを差し引いても余りあるアカデミー賞ノミネートが頷ける魅力的な力作。
製作に4年を費やし、モンゴル政府からの撮影許可を得ただけのことはあり、壮大かつ一大抒情詩的な戦闘シーンは見物、
劇場でも人物が芥子粒くらいにしか見えないほどの広大なロケもあるので、これは劇場で観ることを強く勧めたい作品であると言えるでしょう。
モンゴル人の意地
後にチンギス・ハーンとなるテムジンという男の幼少時からモンゴルを統一するまでの波乱万丈な人生を描いた作品。
美しく壮大な地に男達の意地がぶつかる!
モンゴル人の闘争本能の原点のようなものを感じ取れる!
単に肉体が「強い」だけではなく、部下から厚く信頼され、妻から激愛され、頭脳を使い、何よりもドン底からでも最終的にやり遂げる鋼の精神がある。
主演の浅野忠信は鬼気迫ってそのテムジン像を演じ上げる。
その目は、時に「仏様」のように時に「鬼神」のように変化する。
ただ、この映画で描き出したいところがありすぎたからなのか、場面が急に飛んでしまう感がいくつかあり・・雑に思えて。。
気になったのは私だけなのか・・?
チンギス・ハーンの歴史
12世紀のモンゴル、9歳のテムジンは、父と嫁選びに出かけ、後に妻となる年上のボルテと出会うことになる。
それがすべての始まりのように苦難の道を歩むことになるのだが、その苦難を助けたのは、信じられないようなボルテとの強い絆とテムジンの神々しさだったように思える。
全編モンゴル語や伝統的な歌唱ホーミーなどが劇中でも歌われ、チンギス・ハーン伝説の始まりを、語り聞かされているような感じだった。(話が突然飛ぶことがあるのですが、伝承話のような感じなので、なんとなく納得してしまった。)
せっかく青年期までの話に絞ったのだから、もっと深くテムジンの神秘性やカリスマ性に迫って欲しかったと思う。
浅野忠信の透き通った視線が印象深い
窮屈な日本的会社組織に生きる自分にとって、開け放たれた中央アジアの大草原では逆にどこに自分を置けばいいのか、それだけでも命のありようを考えてしまう。
さらにチンギス・ハーンの時代の、「生か死か」「奪うか奪われるか」の生き方は刺激的だ。ひたすら生きることを全うする、若きチンギス・ハーンに共感する。
それにしても主人公・浅野忠信の、地平線の彼方を見晴るかすような、無心で真っ直ぐな視線が印象深い。
母方の祖父ウィーランド・オバリングはアメリカ合衆国ミネソタ州ウィノナ生まれの北欧系アメリカ人。浅野さんの母はナバホ系のアメリカ・インディアンで元農民の血統と思い込んでおり、浅野さん自身もそれを三十年以上信じていたという親子揃っての天然さんだ。
とある番組制作時にそれが間違いであると判明し、ウィーランドの弟ゴードンは『父ジェイコブはオランダ人、母エラベルはノルウェー人で、共に北欧の家系である』と証言した。ただ、ウィーランドの出身地ウィノナは元々アメリカ・インディアンであるスー族の一支族ダコタが居住する地域であった。また、オバリング家は、未開拓地を無償で払いさげる法律を作ってヨーロッパからの移民を大量に受け入れていた19世紀後半のアメリカに渡って来た西部開拓民であったことも、証言と取材班の調査によって明らかになった。
一家は小麦や大豆を作って生計を立てていたといわれ、第二次世界大戦時以降はアメリカ陸軍の料理兵を務めていたという。
戦後、日本に駐留し、配属された横浜市にて浅野の祖母である浅野イチ子と運命の出会いを果たす。元芸者であった一個は、ウィーランドより15歳年上の38歳で、戦後、満州国大連市から帰国したが、故郷の広島が原爆で壊滅したため、仕事を求めて上京していたところだったという。
その後燃えるような恋愛の後、ウィーランドとイチ子は結婚し、1950年9月23日に長女の順子、浅野さんの母が誕生する。その後、ウィーランドはアメリカ軍の引き上げに伴って帰国する際、妻と娘の渡米を強く望んだが、イチ子さんがそれを拒んで妻子は日本に留まることになる。
その順子さんは18歳にて結婚し、1971年11月14日に長男の久順が誕生、それから2年後の11月27日には次男の浅野さんがこの世に生まれ出た。
浅野さん兄弟は、公園でビキニ姿で日光浴するような奔放さを持つ母と、整理整頓が得意で几帳面な父のもと、横浜市で育った。
両親は20代前半で結婚したこともあり、奔放な性格をしていたという。
浅野さん自身は父親に対して『家でいつも調子が悪いといっては家で寝てばかりいた』母親は『学校を休ませてドライブに誘う』、夜に浅野さん兄弟を家に残して両親がディスコに行ってしまうことも度々あったようで、兄弟は近所の家に『お母さんがいない』と泣きついたこともあったという。
ここまで子供を放置するのも中々無いと思うが、これで無事に良く育ったものだと感心してしまう。
ところが、そんな両親だが『親が白といったら白なんだ』という威厳を持ち合わせて子供に対しての反抗心を持たせないとする厳しさも持ち合わせていたという。
大黒柱の父親が最初に食事し、子供は残ったものを食べるというように、甘やかされることなく育てられた。
クォーターということもあり、髪は幼いころは金髪が混じっており、何をしても目立ってしまうことが多かったという。子供心に、日本人だが日本人になりきれていない違和感も感じていたという。
純日本人の筆者からすれば分からない悩みだが、これがクォーター独特の悩みということなのだろうか。
しかし目立つことをむしろ喜んでいた浅野さんはいつしかテレビに出たいという願望が芽生え始めたが、母が浅野さんに見せたウッドストック・フェスティバルの映像では、ステージ上のミュージシャンが観客を熱狂させているのを見て、人前で大勢の人を喜ばせるような事をしたいと考えるようになり、またこの映像を気に自分から無理に目立とうと思わなくなり、それが今の穏やかな印象に影響していると本人は語っている。
小学生の頃から実家のとなりの空手道場に兄と通っていた。また、ブレイクダンスやスケートボードもたしなみ、中学生からは音楽も始め、パンクロックバンドを組み、元町や本牧のライブハウスを渡り歩いていたという。
1988年、父親がタレントのマネージャを始めたことをきっかけに、やがて父親からテレビドラマ『3年B組金八先生Ⅲ』のオーディションを勧められて受けてみたところ、合格し、タレント及び俳優としてデビューした。
当初はテレビにも出演していたが、撮って放映してを繰り返すテレビの機械的なサイクルが肌に合わず、バンド活動の方に傾倒し始めていたこともあり、父親やマネージャーと喧嘩になることも多かった。
18歳になり、父親に俳優を辞めることを宣言してしまうが、祖母から諌められ、バンド活動と両立して俳優業を続けていくことを決意する。
1999年、『バタ足金魚』で脇役として映画デビューを果たし、大人同士が徹夜や喧嘩を繰り返しながら目標に向かって一生懸命取り組む映画スタイルが信用できると、当時の浅野さんは思えたと語っている。行こう、は映画でだけなら仕事をしてもいいと考えるようになったという。
浅野さんは、『岩井俊二』・『是枝祐和』・『青山真治』など新鋭の映画監督の作品に出演し、知名度を高めていく。
1996年の『Helpless』で映画初主演を飾り、その翌年には日本アカデミー賞話題賞、およびヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞している。
その後の活動の場は日本だけに留まらず、『ウォン・カーウァイ』監督作の映画に出演、『クリストファー・ドイル』監督作『孔雀』などでも主演を務め、国際的にも注目を集めていった。
2000年には『御法度』と『五条霊戦記』で報知映画賞助演男優賞を受賞、翌年には『地雷を踏んだらサヨウナラ』で毎日映画コンクール男優主演賞受賞。
2003年に対・日本その他の合作映画『地球で最後の二人』でヴェネツィア国際映画祭コントロコレンテ部門主演男優賞を受賞。
その翌年いは初監督差君『トーリ』を制作し、ドキュメンタリーやアニメーションが織り込まれた五話のオムニバス作品となっている。この作品の経緯としては、高校生の頃に見たボブ・マーリーのドキュメンタリー映画『Time Will Tell』で、マーリーの葬儀の時に鳥が飛んでいくシーンを受けた影響が元になっているという。昭和のいる・こいるや、無名の頃の菊池凜子、首藤康之などが出演し、首藤は本作品で初めて自身で振付けたバレエを披露した。また、浅野さんのお兄さんも音楽担当として参加し、共同揃っての合作映画となっている。
2005年『太がために』と『乱歩地獄』で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。
それから2年後のに本稿で取り上げている映画『モンゴル』でチンギス・カン役で主演を果たす。監督のセルゲイ・ボ泥負は浅野さんのことを『内面から発する光のようなもの』と感じ、『この役を演じられるのは彼しかいない』と直感したことで抜擢した。本作は前編モンゴル語で離しており、浅野さんもっ出ひたすら語学勉強をしてモンゴル語を覚え、尻の皮が向けるほど乗馬を猛練習して撮影に望んでいたという。
2008年2月、『モンゴル』が第80回アカデミー賞外国語作品にノミネートされ、浅野さんは妻で歌手のCHARAさんと共にロサンゼルスにて記者会見をした。この時、『撮影で留守にしている間、CHARAが家庭内のことを忙しい中やってくれてありがたい』と感謝の意を述べる。また、普段はお酒を飲まないのに馬乳酒などを飲まされていたことや、食事の際に歌を歌う文化のため、アカペラで歌声を披露するなど、モンゴルでの撮影中の裏話がCHARAさんとの会話の中で明かされている。
翌年『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』他で、日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。俳優行の他に、『ASANO TADANOU』名義や、『BUNODATA』名義、[PEACE PILL』、『SAFARI』などでボーカルやギターとして音楽活動も行っている。『SAFARI』ではフジロックフェスティバルに何度か出演も果たしている。
2011年に映画『マイティー・ソー』で、初のハリウッド映画に出演し、新境地を開く。その翌年にはハリウッド映画二作目の出演となる『バトル・シップ』に出演する。
今回は映画タイトルのみ紹介する。
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